1. 人間らしく生きる道(人の道)を、教師と学生が『農』を行じる日々の生活の中で
  確認しつつ、実践していく教育。

2. 充実した生活ができる生涯の職場が入学と同時に与えられる教育。
3. 心の師、心の友に出会える教育



現代社会の都市文明の暮らしに慣れた人々は、『汗を流して働く事のすばらしさ(体を動かす労働の持つ真の意味)』や、ゆっくりと流れていく歳月の移り変わり、壮観な生命への畏敬の心を見失っています。物質文明の喧騒の中で心身を費やしても何も生み出さない事に、多くの若者は気が付き、自分たちの将来に不安を感じています。

現代の若者は、日常生活の様式としては、もっとも現代的ですが、その現代というのも、煎じ詰めれば経済価値と利便性という快楽だけを唯一絶対の価値とする刹那主義を基調としているものにすぎません。しかも、彼らが現在に至るまで受けた現代合理主義という教養も、実は受験知識をベースにし、そこに、おのおのの育った人間環境の表皮をかぶせたものにすぎず、概して真の合理主義とは程遠いものです。その結果、『軽薄な経済合理主義』が次々と生まれては消長を繰り返しているうちに、卑俗な経済合理主義が、また卑俗な社会論理を若者にもたらす結果となりました。

さて、農家自身もさることながら、多くの人々に緑とおいしい空気、安らぎを与えてくれる『農』の営みが改めて注目されています。いわば、環境保全型の農業は、時代のキーワードとなった感さえあります。過疎化した農村には、大きな社会発展の種が植わっています。これを耕し芽を出させ、人間らしい本来の豊かさを実現させるのは、いまや若者以外いません。そのことに気付きはじめた若者も増えています。その若者のバイタリティーを具体化し、実現させる実践教育の場が切実に要求される今日であるといえるでしょう。

これまで、多くの教育の関係者は、人間にとって『農』の営みがどれほど重要なものであるかを、あまり理解しようとしませんでした。それは、既存の大学の農学教育においてもいえる傾向であります。戦後の日本の農業教育では、先人の『農哲学』が過剰なほどの神経質さで排除されてきました。その結果、学生は、農哲学に深く触れる機会も無く、彼らの身の回りにあるのは、軽薄な合理主義を基盤とする、近視眼的な技術主義の教育でした。

教育の現場から、『農を行ずる』という農の哲学が排除されてきた結果、若者は大学時代において、農の哲学を通じた人格形成の機会を遮断されてしまいました。知識としての概念的な農業理論に関する情報はある程度持ち合わせているものの、具体的な生命の現場としての、農村や農の営みに対する意欲は極端に減衰しました。若き農者の農村離れ、農作業忌避をもたらす所以のものです。

真の農業教育の回復の試みは、教師と学生が共に日々『農を行ずる』農の哲学の実践から始まらなければなりません。そもそも農業は、その作業内容の過程で頭脳を磨き、五感を鍛える最高の仕事であるはずです。指先を使い、手足を働かせ、体全体を動かし、『見る』、『触れる』、『嗅ぐ』、『聞く』という行い、つまり手足や五感を動員しない思考は、浅智慧にすぎません。日々『農を行ずる』教育によって初めて、農業教育を含めた農の文化そのものが、厚みのある豊かなものとなるでしょう。

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『21世紀は農業の時代』、『農業は、良い収入の職業になる』などと、騒いでいる人々もいます。しかし、われわれが描いている農業の未来、21世紀の農業は、『業(なりわい)としての農』から、『生き方としての農』への方向転換です。人は、自分の生涯の仕事として、『やりがい』があるもの、『楽しいもの』であれば、誰に言われなくても一生懸命働きます。さらに、『個性的』で、『創造性に富む』仕事なら言うまでもないでしょう。

社会が成熟した現在において、自然・心の安らぎ・ほんとうの豊かさ、といったイメージが、これから求められるキーワードであることは、誰もが認めるところでありますが、こうしたイメージを実現し、定見できる仕事は、農業をおいて他にあるでしょうか。

『都会』という言葉が、かつての甘い響きを失い、むしろ、『田舎暮らし』という言葉のほうが自由さやおおらかさを感じる時代を迎えました。しかし、若者たちが魅力を感じ、はつらつとした活気のある農村に変えるには、まず、農業だけで生活できる収入が得られるようにすることが重要です。ただ、農家の生活は自給度が高く、住環境などのゆとり度を含めて、自分のものさしではかるべきでしょう。欧米の農家に比べて規模が小さい日本の農業の現実で、農業だけで生活できる収入が得られるようにするためには、まったく新しい発想、創造性、そして、新しいシステムの構築が必要です。

日本の消費者が年間に支払う飲食費は、80兆円を超えますが、農産物の生産量に農家からの出荷価格を乗じた農業総産出額は、2003年の時点でおよそ9兆円と言われます。生産額と最終消費支出額のギャップは、農村が生み出す結実のほとんどが、加工や、流通部分に流れてしまい、生産者の農家はその割を食っている構図が浮かび上がります。しかし、その大きなギャップは、農家の所得を増やす余地が大きいと言えます。

また、農産物だけではなく、農村の景観・環境も含めた『農の資源』ー日本は、ヨーロッパに比べ農村の景観・環境作りがまだまだとか、農村住宅の違いなどを指摘する声もありますが、農村のあるがままの姿、暮らし方は最高の観光資源となります。欧米の人々にとって、東京など都会の風景は何の感動も沸きませんが、ひとたび山間の棚田などの農村の独特の風景を見ると、凄い感動を覚えると言われますーを、最大に活用する斬新な発想も必要でしょう。

こうした潜在的な可能性を具体化するため、生産・加工・サービスの一体化・循環化が要求されます。これは、ひとつの農家、個人では簡単に出来ることではありません。これは、志を共にする人々の協同的な仕事となる時、最も可能性が高くなるでしょう。おそらく、農哲学院は、学生たちに生産・加工・サービスの一体化・循環化のシステムを緻密に準備させ、卒業と同時に働く場を与える日本最初の農業教育の機関となるでしょう。

こうした新しい発想の実践的モデルが、すでに北海道、イギリス・スコットランドで、始まっているのです。

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これからの高等教育機関は、教師と学生とが尊敬しあう新しいスタイルの教育環境が必要だと、われわれは確信します。教育の場が概念的な知識よりも、生きた智慧を体得する場となる時、学生も初めて教育機関に自分の将来の夢を託すようになるでしょう。学生が生涯にわたって糧とすべき生きた智慧は、生への深い洞察と学識を兼ね備えた教師との触れ合いを通して体得するものだと、われわれは確信します。

農哲学院の教師は、人知の限界を謙虚に受け止めて、すべての生命に対する畏敬の念をもつことに最高の価値を置き、世間一般の業績主義よりも、実践の中で、生への深い洞察と学識を深めた方々です。言い換えれば、若い学生の目から見て『こんな方の下で、学問と生活を共にしたい。』と思えるような方々です。教師と学生が共に、晴れた日には農作業に汗を流し、雨の日には生を深く考える霊性的・知性的な時間を過ごす、もしくは、自由に創造力を働かせ、創作に没頭する。いわゆる晴耕雨読の生活を理想と考える若者にとって、本学院は、理想の場となるでしょう。それは、昔から東アジアの文化圏で、最も理想的な生活とされていたライフスタイルでもあります。

本学院のすべての教科課程は、学生の日々の生活が協同的な農の営みと密接につながるようになっています。もともと『農』の営みは、協同性を基盤としています。しかし、現代の農業は効率性という名の下最も大切な協同性を奪ってきてしまいました。

学生同士が、協同的な毎日の農作業の時間などを通して、他では出会えない生涯のこころの友を見つけるでしょう。

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